京都議定書とは?合意内容とその後について
2010/09/14
京都議定書とは、温暖化に対する国際的な取り組みのための国際条約です。1997年に京都で開催された国連気候変動枠組条約第3回締約国会議(COP3)で採択されたため、「京都」の名が冠されることになりました。この取り決めに基づき、日本政府も1990年比で2008~2012年に6%の温室効果ガスの排出量削減を義務付けられました。日本は、この目標は達成することができましたが、途上国に対して削減を義務付けない同議定書を不服とし、次の約束である第2約束期間(2013~2020年)には不参加となりました。
京都議定書とは
世界が交わした初めての「約束」
1997年、世界各国の政府代表者が日本の京都に集まり、第3回目となる、国連気候変動枠組み条約の締約国会議(COP3:Conference of Parties)を開催しました。この会議において採択されたのが、「京都議定書」という国際条約です。
京都議定書は、参加している先進国全体に対して次のことを要求しています。
「温室効果ガスを2008年から2012年の間に、1990年比で約5%削減すること」
加えて、国ごとにも温室効果ガス排出量の削減目標を定めています。この取り決めにより、EUは8%、アメリカ合衆国は7%、日本は6%の削減を約束しました。
アメリカは後に京都議定書体制を脱退した(批准しないことを明確にした)ため、この約束を破棄してしまいましたが、この削減目標は世界で初めてとなる取り決めとなり、国際社会が協力して温暖化に取り組む、大切な一歩となりました。
一方、京都議定書は途上国には削減義務を求めていません。
これは、気候変動枠組条約の「歴史的に排出してきた責任のある先進国が、最初に削減対策を行うべきである」という合意に基づき、京都議定書の下での最初の約束については、まずはこれまで温暖化を引き起こしてきた先進国が率先して対策をするべきだ、という考え方が反映されたためです。
京都議定書に参加する国々は、国内での削減対策と同時に、追加的なものとして「京都メカニズム」を利用したり、「吸収源」として森林や農地で吸収される炭素をカウントしたりすることが認められています。そして削減目標を達成できなかった国には、罰則が適用されることになっています。
京都議定書の合意とその後の交渉
1992年のブラジルのリオ・サミット(地球サミット)において、国連気候変動枠組み条約が採択されたことで始まった国際的な温暖化問題への取り組みは、1997年に京都議定書が採択されたことで、大きな一歩を踏み出しました。
そもそも、国連気候変動枠組条約は、その名の通り、温暖化問題に対する国際的な枠組みを定めるためのもの。原因となる温室効果ガスの削減については、非拘束的な約束があるのみで、各国に具体的な取り組みを求めるまでには発展しにくいものでした。
しかし、1997年に採択された京都議定書では、先進国各国の温室効果ガス排出量削減目標が定められました。これは、各国が具体的な削減行動を義務づけられたという意味において、国際的な温暖化対策としては極めて大きな一歩でした。
日本は、「基準年」と呼ばれる1990年の水準から6%を削減することを約束しました。
後に京都議定書を離脱してしまうアメリカは7%の削減を、そして、EUは8%の削減を約束しました。
WWFは、この議定書の採択に至る交渉の段階から、国際的な環境NGOとして、大幅な温室効果ガス削減目標を設定することを訴えてきました。
京都議定書では、途上国は削減の義務は負っていませんが、それはこの合意が「共通だが差異のある責任」原則に従ったためです。
この原則は、温暖化は地球規模の問題ということで、「問題解決ヘ向けての責任は全ての国が共有するが、温暖化を引き起こしてきたのは先進国であり、まずは先進国が率先して対策をとるべきだ」という考え方です。
京都議定書の採択の後、さらにその実施にかかわる詳細なルールについての交渉がされました。その合意をする予定であった2000年のCOP6では一度交渉が決裂し、さらに2001年3月にアメリカが京都議定書体制からの離脱を宣言したことで、一度は京都議定書の危機が心配されました。
しかし、このことが逆にその他の国々の合意への意志を強める結果となり、2001年にはCOP7でマラケシュ合意という京都議定書実施のルールが決まりました。
この実施のルールが決定される過程においても、京都議定書が実質的に抜け穴だらけになってしまわないように、WWFは、国連交渉の行方を見守り、重要な問題については積極的に提言をしていきました。
そして、マラケシュ合意というルールが確定した後は、京都議定書が効力をもつために必要な手続きである各国の批准が迅速に進むよう、各国に対してよびかけを行ないました。
京都議定書の発効からパリ協定の成立まで
2004年秋にロシアが京都議定書を批准したことで、2005年2月、京都議定書が発効(効力を持つこと)に至りました。
これは、京都議定書の約束がいよいよ確実に達成しなければならない国際公約になったということを示すとともに、もう1つ、重要な意味を持ちました。
それは「2013年以降」に関する交渉の開始です。
京都議定書での温室効果ガス排出量削減目標は、2008~2012年の第1約束期間と呼ばれる期間を対象にしたものです。
でも、2013年以降の取り組みについては、何も決まっておらず、白紙の状態でした。
そして、京都議定書自身の中に、2005年になったら、その「2013年以降」について、締約国は話し合いを開始しなければならないということが書かれていたのです。
京都議定書の採択時以降、世界の情勢も大きく変わり、世界の排出量を見ても、将来的には中国やインドといった途上国の排出量が大きくなっていくことが予想されるようになりました。
そのため、2013年以降は途上国にもなんらかの取り組みを求める声が高まっていました。
しかし、京都議定書の中で目標を持った先進国の取り組みも決して順調とはいえず、ましてや、世界第一の排出国であるアメリカが抜け出てしまっている状態で、途上国に対して先進国が取り組みを要求するというのも極めて難しく、「2013年以降」へ向けた交渉は、テーブルにつく段階から問題が山積みの状態でした。
京都議定書では決められていない、「2013年以降」の、国際社会による温暖化防止のための取り組み。
その方法についての取り決めは、各国が話し合い、2009年にデンマークのコペンハーゲンで開催されたCOP15・COP/MOP5までに決めることになっていました。
しかし、厳しい交渉の末、国際社会はCOP15で新しい合意を作ることができませんでした。
その後、2010年のメキシコのカンクンで開催されたCOP16・COP/MOP6でのカンクン合意や、南アフリカのダーバンで開催されたCOP17・COP/MOP7でのダーバン合意を受けて、新しい交渉プロセスが立ち上げられました。2015年のCOP21において、「パリ協定」が成立し、新しい国際的枠組みが誕生しました。
京都議定書の意義
京都議定書が持った意義については、近年に、否定的な意見や批判も多くなっています。
しかし、京都議定書が「不十分であった」というのは事実ですが、「失敗であった」かというと、そうではありません。
たとえば、「京都議定書はアメリカや途上国が参加していない」という批判がありますが、そもそも交渉と採択には参加したのに、後でアメリカが参加しなかったこと自体を、京都議定書の欠陥とするのは無理がありますし、京都議定書が採択される当時では、先進国がまずはリードをとって排出削減を行なうことは、当然といえば当然のことでした。
また、京都議定書の基準年である1990年と比較して、世界全体の排出量は増加してしまっており、その意味では京都議定書は気候変動対策としては不十分であったということは事実です。
しかし、京都議定書の下で各国が排出量削減に取り組みを開始していなければ、より排出量は大きくなってしまっていたことは確実です。
その意味では、京都議定書は、不十分ながらも一定の役割を果たしたといえます。
何より、先進国だけでなく、途上国においても、排出量を測り、削減策を検討するということが一般化していく過程において、京都議定書の存在は極めて重要であったと考えられます。
このように、世界で初めて、温室効果ガスの排出量を国別で管理し、削減していく仕組みを作って行くことを促したという意味で、京都議定書の意義は大きかったといえます。
今後、新しい国際枠組みを作って行くことが必要ですが、その中では、京都議定書で作られた制度を礎とし、得られた経験を着実に活かしていくことが重要です。