シリーズ:クマの保護管理を考える(10)クマと人間の「距離」を考える ~弘前藩史料より(2)


現在の日本で毎年発生している、クマと人とのトラブル。その背景には、人とクマ、それぞれの生活圏の「距離」の変化があるとみられています。かつて両者の間に存在した「緩衝地帯」の喪失が、事故を引き起こす大きな要因になっているのです。この問題を解決するためには、何が必要なのか。江戸時代に同様の問題に取り組み、見事な成果を出した青森県の弘前藩に伝わる史料「国日記」より、人とクマの間の「距離」について考えます。

変わりつつある動物と人間の「距離」

このシリーズ「クマの保護管理を考える」では、現在、クマが人里へ頻繁に出没する原因の一つとして、山と里との中間に位置する「緩衝地帯」が、いままで果たしてきた機能が急速に失われていることを指摘してきました。

緩衝地帯とは、かつての「里山」などを含む中山間地域のことです。この中山間地域は、人と野生動物とが共存してゆく上で、一定の役割を果たしていたと考えられます。

古来、日本人は、狭く山がちな国土の中で、クマのみならぬ野生動物たちとの「縄張り争い」を続けながら、その時代時代において、このトラブルの解決に取り組んできました。中山間地域に代表される「緩衝地帯」は、そうした過程の中で、人が野生動物との距離を測りながら、次第に形成していった、一つの知恵の成果といえるのかもしれません。

たとえば、人が多く居住する区域と、野生動物たちの世界である山林との間に広がっていた里山は、クマなどが出没し、人も多く立ち入る場所でした。そのおかげで、クマは頻繁に人の存在を感知し、里山のさらに向こうにある人里までは、めったに降りて行くことはありませんでした。

また、この中山間地域には集落が散在し、その住人は、集落周辺に野生動物が出没した際、あるときは捕獲し、また、ある時は積極的に山へと追い払っていました。このように中山間地域は、その存在自体が、里に住む人と山に棲む野生動物の頻繁な遭遇を抑える力として働いていたのです。

ところが、こうした里地里山のような環境を維持してきた集落は、農林業の衰退によって元気がなくなり、管理をしてきた人々の高齢化や人手不足によって、多くの地域で荒廃・消滅していきました。

人と動物との「緩衝地帯」が失われた結果、それぞれ生活圏の「距離」が狭められ、場所によっては直に接するようになったのです。

すると、わずかな環境や状況の変化によって、野生動物は人里へ頻繁に出没するようになり、農作物に被害を与えたり、また人身被害にまで繋がるケースが増加しました。現在の日本のクマ問題は、まさにこのような現状、そのものであると言うことができるでしょう。

しかしこれは、日本の地域社会が昔から背負い続けてきた課題でもありました。

新田開発とクマ

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秋田の鳥海山

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ブナ林と小川

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ブナ林

東北歴史博物館の学芸員、村上一馬さんが、6年の歳月をかけて読み解いた、青森県の弘前藩史料『弘前藩庁御国日記(国日記)」。

ここにも、人間の生活エリアとクマの生息エリアの接近問題と、それに対する先人たちの取り組みのことが詳記されています。

江戸時代、元禄年間に弘前藩で見られたそのもっとも顕著な例は、新田開発に伴うものでした。弘前藩が大規模な新田開発を行なった結果 、クマが人を襲う「熊荒(クマあれ)」が多発するようになったのです。

「国日記」に見られるこの熊荒の記録と、その被害件数には、ある特徴が見られると村上さんはいいます。

「国日記に書かれているクマの人身被害の記録を整理してみると、被害は1700年の前後25年間に集中し、25年間の中でも前半に多く発生していることがわかります。

元禄年間に集中している70名の被害を注意深く見ていくと、70名のうちの半数は、新田地帯の山林に近い田んぼや里山で起こっていることが分かりました。弘前藩では元禄期の直前に大規模な新田開発を完成させていますが、この場所を中心にクマの人身被害が激増したことが国日記から読み取れるのです」。

つまり、「熊荒」とは、新田開発という開発行為が、それまで人とクマそれぞれの生活圏の間に暗黙のうちに引かれていた境界線を破ってしまい、しかもそれが大規模に行なわれたことにより、クマが自分の生息圏を守るために試みた反撃だった、とも考えられるのです。

新田地帯の山林付近、という、クマと人の生活圏がぶつかる最前線で、この「熊荒」が多発したのも、ある意味然るべき結果だったと言えるかもしれません。

「緩衝地帯」の形成

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東北歴史博物館学芸員、村上一馬さん

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弘前藩庁御国日記を読み解いた村上さんの著書

ところが、この25年間を過ぎると、熊荒の記録は数例しか出てこなくなり、1720年代以降は僅かに3例が見られるだけになるといいます。

しかもこの3例はいずれもマタギ(猟師)が猟の最中、クマに逆襲されたもので、それまでのように山菜採りで山に入った領民や、田畑で作業をする人など、一般の人が被害を受ける、というものではありません。

「国日記」は、覚書や請願、提出書類などまでも詳細に記録した弘前藩の公式史料ですが、そこに、1720年代以降、熊荒の記録が見られなくなることについて、村上さんは、「藩が方針として熊荒の記録を残さなくなっただけかもしれない」という点を指摘しながらも、他の事故死などの記録は引き続き残されていることから、実際に熊荒が無くなった可能性が十分にあると推察します。

その根拠は、猟師の優遇や、熊荒の起きやすい場所への猟師の配置、さらに、江戸元禄時代には制限されていた鉄砲の可能な範囲での効果的な利用など、弘前藩の積極的な行政施策が記録に残されているためです。

特に重要だったのは、猟師たちを新田地帯と山林の中山間地域へ移したことで、人里に降りてくるクマに対し、迅速に対応できるようにしたことです。

つまり、野生動物に対する、こうした一定の圧力が働くようにしたことで、人と野生動物それぞれの生活圏の間には、緩衝地帯が形成されていったと考えられるのです。

しかし、その成果が出るまでには、新田開発の後、25年間という歳月を要し、その間にはたくさんの人身被害があったことは、記録が示す通りです。

折しも「生類憐みの令」が布かれていた江戸元禄時代のこと。鉄砲を持たせた足軽をクマの駆除に派遣する際にも、クマ以外の動物を撃たないこと、歴代将軍の命日には鉄砲を撃たないこと、などを記した誓約書を提出させていたことが、記録からはうかがえるそうです。

弘前藩の人々が歩んだ、クマとの棲み分けを確立するまでの道のりは、決して容易なものではなかったことでしょう。

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陸奥湾を挟み津軽半島を望む

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ヒバ林

人とクマの「距離」

弘前藩の史料に見られる新田開発の例は、クマの側から見ればもちろん、人間の一方的かつ強引な開発行為であったといえます。

しかし、その結果引き起こされたクマとのトラブルに対し、弘前藩の人々は、人手と長い時間をかけて対応し、改善を重ね成果を出していった様子がうかがえます。

弘前藩が25年をかけて形成した「緩衝地帯」は、現在の日本では直近の25年ほどの間に、著しく失われ、中山間部の地域社会は崩壊の一途をたどってきました。

同時に、人とクマと共存のバランスも崩れつつあります。そして、その大きな原因である、日本社会における少子高齢化、地方の過疎化もますます深刻な問題となっています。

クマの出没問題は、クマという一種だけの動物めぐる問題ではなく、現在の日本社会が抱える社会・経済問題に根ざした、極めて大きな問題だということができるでしょう。

これは一朝一夕に解決できるものではありませんが、先人たちとて、同様の問題に苦しみながらも、野生動物とのトラブルの解決に取り組でいたことは、ここまで見てきたとおりです。

人はクマとどのように、またどれくらいの「距離」を保ち、共存してゆくべきなのか。

これからの未来に向けて、先人たちの後裔(こうえい)たる、現代の人々の「知恵」が問われています。

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ミズナラ

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花火による追い払い

 

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