
生物多様性の減少は、気候変動とともに地球環境の大きな危機です。しかし、そうした危機や、自然や生きものと日々の暮らしとのつながりを実感し、周りの人々と共有する機会は限られているのではないでしょうか。「コミック・ダイバース」が着目するのは日本が誇る文化、マンガ。作品を貫く鋭い視点は、作家自身がそれを意識せずとも、生物多様性の豊かさと、それがもたらす日常の魅力、そして損失による負の情景を捉えています。「コミック・ダイバース」は、漫画家、研究者、アーティストなど、さまざまな分野で活躍する方々を選書者に迎え、マンガのワンシーンから生物多様性を紐解きます。その言葉や視点に触れ、ぜひ日々のなかで生物多様性を感じるきっかけを見つけだしてください。
おしらせ
- 2025年5月22日
- 2025年3月5日
- 2024年7月24日
- 2024年6月17日
生物多様性って?
WHAT IS BIODIVERSE?
地球には、無数の生命が息づいています。そこには人間のほか、多種多様な動物、植物、菌 類やバクテリアなどが含まれ、こうした生命のつながりを「生物多様性」と呼びます。これらの生きものはただ一種だけで生きていくことはできず、他のさまざまな生きものと直接的、間接的につながることで複雑な生命の環を織り成します。「生物多様性」とは、地球という一つの環境そのものであり、すべての生命を包含する言葉に他なりません。
読む、語る、つながる
マンガで感じる生物多様性
vol. 2
vol. 2では自然と向き合いながら活動を続ける3人の選書者を迎えました。初めての試みとして、選書したマンガについてのインタビューを、一般参加者を交えて実施。マンガを入り口に選書者の活動と生物多様性のつながりを紐解きました。また、2025年1月にWWFジャパンが実施した「生物多様性に関する生活者意識調査」から得た声をふまえ、選書者と一般参加者の対話の時間を設けました。
石川直樹
NAOKI ISHIKAWA
写真家

<選書作品>
水木しげる
『猫楠 南方熊楠の生涯』
インタビュー
「すべてはつながっている」

書影:KADOKAWA/角川文庫
多くの旅の原点に書物の存在があります。中学2年生の冬休みに初めて一人旅で高知県を訪れたのは、坂本龍馬の故郷を見たいとの思いがきっかけでした。司馬遼太郎さんの小説はもちろんですが、それ以上に当時の僕を感化したのが『お〜い!竜馬』(武田鉄矢原作・小山ゆう作画)です。青春18切符で東京から高知まで20時間をかけて移動しました。その後も数えきれないほどにいろいろな旅をしましたが、北極圏やアラスカへの原点には星野道夫さんや植村直己さんの書籍があります。
今回、生物多様性を感じるコミックとして選んだのが水木しげる先生の『猫楠 南方熊楠の生涯』です。和歌山県田辺市に拠点を置き、生涯を通じて在野の学者に徹した南方熊楠(1867〜1941)を題材とします。熊楠の常軌を逸した部分をエッセンスとして描きつつ、水木先生独自の視点もある非常に面白い作品です。熊楠は自身を〈リテレート〉と表現しました。文士や在野の研究者を意味する言葉で、自らを主流ではない傍流の存在だと位置づけています。粘菌の研究でよく知られますが、民俗学を実践し、熊野の森を守る運動も行うなど、非常にカテゴライズしにくい人物です。だからこそ水木のような作家が念入りに描き綴ったのでしょう。実在の人物でありながら妖怪的なところがある。僕も熊楠に強い思い入れがあり、それは綺麗事に留まらず、すべてを掴み取るような人物に惹かれるからなのだと思います。
作中の狂言回しとして熊楠の飼う猫、猫楠が登場します。この猫楠が、他の猫と森羅万象は繋がり合うのだと会話をするシーンがあります。海辺の木を切ることで木陰がなくなり、魚が海に寄り付かず、漁師が困ることになる。村の寄り合いの場である神社を取り壊すことで、大昔から伝わる村の自治が阻まれ、庶民の信仰が衰える。すべてはつながっているのだと、言葉を変え、話を変え、本作は各章でひたすら伝えています。ここに生物多様性を見ました。
熊楠が研究した粘菌(変形菌)はいろいろな形に姿を変える単細胞生物です。熊楠はアメーバ状の粘菌を「痰」のようだといい、人間には死んでいるように見える状態こそ粘菌は活発に動いているのだと喝破しました。そこからキノコのような形態になると人間は生を感じているものの、粘菌は動かずに死を迎えた状態であるとしました。熊楠は粘菌に生と死を見出し、それもまた大きな循環であるのだと水木は作中で描きます。
僕が尊敬するもう一人の人物、宮本常一もまた在野の民俗学者です。宮本は、日本の民俗学の発展に尽力した渋沢敬三に薫陶を受けました。渋沢は若き宮本に、学者になるな、研究者になるなと言っています。一人の人物が全国を見て歩くことで見えることがある。研究者は一つのことを深く追求していくが、研究者のための資料を収集してはどうか。そんな渋沢の言葉から、宮本は日本全国を巡ります。全体を見回し、見通すことが優れた研究の入り口になる。熊楠も宮本も、そして僕自身の旅も同じことだと考えています。僕は世界全体を歩きながら、研究者の資料になるような写真を残していくことをひたすら続けているのです。
Q 生物多様性を意識する機会を教えてください
もちろん、どこを旅しても生物多様性を感じます。僕はこれまで、さまざまな土地を旅してきました。行く先々で極地や自然の奥に入っていくと、必ず地球の循環を感じる存在に出合います。ただ一方で、先進国を生きる人の言葉だとも感じる。ヒマラヤの麓、北極圏、太平洋の島々に暮らす人々は、その言葉を使わずとも多様な環境が非常に大切であることを身体的に理解しています。僕は論理ではない形で環境にコミットする人々をずっと見てきました。ですから生物多様性という言葉から遠く離れた場所にこそ、その概念を当然のものとして生きている人々がいるのです。
僕が最初に生物多様性をはっきりと実感したのは高校生の頃です。中学生からカヌーで川下りを始め、カヌーイストで作家の野田知佑さんにも影響を受けました。野田さんは当時、岐阜県の長良川に建設される河口堰の反対運動を行っていました。僕も建設の影響を調べ、学校の壁新聞にまとめたりもしました。野田さんが長良川河口で行ったカヌー700台によるデモには学校の制服で参加しました。もちろん大きな問題意識も感じつつ、当時すでに国内には源流から海まで下れる川が3つしかなく、その一つが失われることに強い憤りを感じたというのが素直なところ。調べるほどに、アマゴ、シジミなどの生物に思いを馳せるけれど、自分の実感として身につかないと言葉を発せないように思う部分もありました。そこで長良川へ行き、釣りなどをすることで実体験へと変えていったのです。
Q 他の生物とつながりを感じる機会を教えてください
長い遠征は二カ月以上を費やすことも少なくありません。その大半は、森林限界を超えた5000メートル以上の高所で過ごします。そこではまったく植物を見ることがなく、ベースキャンプ内に造花を飾る人もいるほどです。しかし僕にはやはり、ただの装飾にしか見えません。下山を始めると、緑が少しずつ見えてきます。まずは地被類と出合い、小さな灌木が現れ、花や木々が見えてくる。僕はそれほどナイーブなタイプでもロマンチストでもないものの、花を見ると泣きそうになります。2015年にK2に登りに行った帰り道、地面すれすれに生えている茎が短いピンク色の花を見て思わず泣いた経験もありました。生物がいることのうれしさのようなものだったのかもしれません。
参加者との対話レポート

今回、インタビューを行ったのは写真展「With the Whole Earth Below」の会場であるゴールドウィン東京本社。これは、石川さんが地球上にある標高8000メートル以上の山14座すべてを登頂したことを記念して行われた写真展です。フィルムカメラで撮影された山々とそこに至るまでの足跡は、私たちの知らない世界を教えてくれるもの。石川さんの目を通じた世界の豊かさが参加者を魅了しました。石川さん自身による会場案内ののちにインタビューがスタート。石川さんが推薦するコミック、そして自身の活動を交えた生物多様性への視点を経て、会場からはいくつもの問いかけが生まれました。まずは世界を旅する石川さんに、自身も生物多様性を感じたいとの声が。「生物多様性を感じられる国内の土地はどこでしょうか」との質問に、石川さんは「流氷の季節に知床を訪れてください」と語りはじめました。
「本来塩水は凍らないので、海が凍ることはとても珍しい自然現象です。それはオホーツク海にアムール川からたくさんの真水が流れ込み、塩分濃度が薄まって凍りやすくなるから。この稀有な環境で生まれた流氷が南下し、知床に辿り着きます。それは水がシベリアから北海道にやってくるという地理的な循環も感じさせるものです。流氷は真冬の厳寒期にやってくるにもかかわらず、俳句では春の季語だといいます。つまり北国の春の訪れには、自然現象としての流氷が必要なのです。流氷にはたくさんの栄養分が含まれ、春がやってくると緑が芽吹き、山菜が出始め、熊や鹿が出てくる。自然の循環を強く感じられる土地です」
続いて、都市部に暮らすからこそ休日に自然豊かな地を求めるという参加者から「都市や他の土地での生活についてどう考えていますか」との問いが投げかけられました。
「僕は渋谷に生まれたからこそ、自然への憧れで旅に向かったのだと思います。東京はアイデンティティを得にくい土地で、いろいろなことが混ざり合い、真っ黒というよりも無色透明な都市だとも感じます。他の土地への憧憬が生まれたことは、旅人として良かったのかもしれません。僕は子どもの頃から読書が好きで、10代、20代の頃は本の中も旅をしていたとも言えます。そこで見聞きしたことを実体験にしたいと、旅に出ることが多かった。ですから漫画を含め、書物全般に強い感謝があります。いま僕が本作りにひたすら注力するのは本に恩があるから。展示は足を運んでいただかないといけないけれど、本は送ることができる。これまで旅で出会ってきた人々に送ることは、僕にとってとても大事なことなのです」

そして最後は「あらためて生物多様性の理解に正解はなく、それぞれに答えを導くものだと感じました」との感想を述べた参加者から、「一方で生物多様性という大きな言葉を読み解くために、なにか投げかける言葉をいただけませんか」とリクエストが。
「あらゆる生物が、繋がりのなかで、関係性のなかで、生きていることが物事の大本にあることをお話ししたように思います。たとえばチベット仏教は輪廻転生を信じ、生物を殺しません。あそこにいる野良犬が死んだ祖父の生まれ変わりかもしれない……その感覚は理解できなくとも、僕らが循環の一部にいるという概念は理解できるのではないでしょうか。教科書的に森を破壊してはいけない、ゴミを捨ててはいけないのではなく、そうした行動や循環のなかに自分がいることを、頭の片隅に置いておくことがなにより大切なのではないでしょうか。教条主義ではなく、すべての循環の中に僕らも生きているのだと考えると、自ずと行動の軸となり、進むべき道を決めるなかで揺らぎもなくなるのではないでしょうか」
石川さんは山頂に近づくほどに宇宙へ近づき、空も黒に近い濃紺になるのだと語ります。会場に並ぶ写真の数々は、私たちの意識を遠くへ誘うもの。しかしそれはあくまで私たちの生きる世界と連続するものです。また、自身の体験や思考を綴る写真や文章で人々を魅了する石川さんを支えるのは、経験、知識、探究心などが複層的に入り混じる視点にあります。世界を知り、考えをつづけること。そのタフな姿勢は、生物多様性への理解を深める一助になりそうです。

参加者の感想
「あらためて生活と自然とすべてがつながっていること、なんだか忘れていたことを思い出しました」
「人から聞くことも大切ですが、自然の中や土地へ足を運び、自分の感覚で体験したいなと思った」
「石川さんのお話を直に聞けたことで、「次」につながる何かを得た」
「生物多様性は人によって定義や連想されるものが違うので、言葉に捉われすぎずに、旅をして様々な視点でものを見ることをこれからも実践していきたい」

江口宏志
HIROSHI EGUCHI
蒸留家

<選書作品>
荒川弘
『銀の匙 Silver Spoon』
インタビュー
「特別なものはなく、バランスこそが大事」

僕はもともと本にまつわる仕事をしていたのですが、蒸留の仕事をするために千葉県大多喜町へ移り住んで8年目を迎えます。発見は日々たくさんあり、知らないことばかり。それまで果物は八百屋やスーパーマーケットで買っていたけれど、実際に栽培すると、実以外の花や葉にもとてもいい香りがあることを知りました。摘果するリンゴにはしっかり酸味があり、熟したリンゴとはまた違う魅力があるとか。自然のなかに身を置くことで、果実の旬の季節はもちろん、そうではないいろんなタイミングに自然の魅力があることを知りました。そこに自分たちが関わることで、なにかを形にできることがとても面白い。いまも近所の農家さんと話すなかで、知識がないことを感じます。知らないことをよしとして、いろいろ教えてくださいと。そうした、知らないからこそ見えてくるもののよろこびや成長が描かれている漫画が荒川弘の『銀の匙 Silver Spoon』です。
畜産や農業の経験がない主人公が農業高校に入学します。他の生徒は実家が酪農や養鶏などを営むなか、ガリ勉だった主人公がなにも知らないからこそ発見をしていく前半はとくに共感して読みました。作中で主人公が授業の一環で豚を飼い、育て、最終的に出荷して食肉に加工される流れを体験する回があります。主人公は自分で育てた豚を買い取り、ベーコンを作ってみたり、みなで豚肉を食べるパーティーをやったりするわけです。それはとても理解できるし、僕もそういうことがしたいんだと、自分がやっていることを振り返りました。僕も移住して8年目をむかえ、いろいろと知ってしまったのは良くないですね(笑)。
豚肉がさかのぼれば豚であることは当たり前のことではあるけれど、なかなか実感を得がたい現実があります。僕たちはいま、「もみじ」という品種の鶏を飼育しています。僕らが食べ残したものをすべて彼らが食べてくれます。少し広い小屋と遊べる庭を用意しているのですが、一日中動き回っているので常に土をかき混ぜてくれる。籾殻や落ち葉を一緒にしておくと、あっという間に鶏糞堆肥のようになります。それを畑に撒き、また野菜を作る。なんてよくできた仕組みだろうと思います。「銀の匙」では、馬もよく登場します。主人公が馬術に挑みますが、最初はまったく馬を乗りこなせない。それは馬をなんとか手懐けようとするからで、蹴っ飛ばされたり、踏んづけられたりする。そのうちに先生や仲間から、むしろ馬の方が人間より上だと言われる。身体能力はもちろん馬が上で、馬に合わせることを心がけるとちょっとうまくいく、みたいなシーンも面白いですね。どうしても人間は自然や動物に対し、ピラミッドの上にいるような気になってしまう。けれど実際はそうではないのだということが、作中で何度も示されます。
mitosayaの敷地には、蒸留所があり、薬草園があり、僕たちの家があります。生活する場と経済活動を行う場と動植物を育てる場が混然一体となっている。こういう場所を日本で探すのは実はとても難しい。日本では、住宅は住宅、工場は工場、農地は農地で使い道が決まっていて、それらを同時にできる場所はほとんどありません。ここはたまたまですが、公立の薬草園だった場所で用途が定まっていない。だから自ずと多様な使い方が可能です。生産したものが製品となってたくさん売れればうれしいし、利益が出るようにがんばろうという目的が生まれます。一方で畑や養蜂をしていると、無駄を減らし、環境を良くしていこうという目的も生まれます。そこに家族での日々の生活を加えると、なにを大切にするかという視点はどこから見るかで異なるし、相容れないこともでてくる。それでも同時にやるのが面白い。
なにかが特別に大事ということはなく、バランスが大事みたいなことは「銀の匙」の馬のエピソードにも通じます。すべてを人間がコントロールするよりも、自然を良くすることで植物が育ち、たとえばその蜜をミツバチがはちみつにしてくれ、僕らはそれを使った商品を作れる。商品が売れれば家庭の仲もよくなるみたいな。いろいろなことが結びついて生きることになるんだということが、限られた土地のなかでも理解できる。そうした視野を地球へと広げていくと、生物多様性に繋がってくのではないでしょうか。
Q 生物多様性を意識する機会を教えてください
CAN-PANYでは、高知県の農園が作る有機栽培の生姜を使ったドリンク〈ジンジャーソーダ〉をつくっています。生姜は季節によって味が違います。辛さに強弱があり、甘さがあったりと。一つの植物のなかにも多様性があるから。僕らはこのジンジャーソーダを春夏秋冬の4回にわたって生産しています。秋のバージョンはターメリック、クローブ、カルダモン、チリなどを入れ、少しスパイシーな感じに。春のバージョンは柑橘の花やエルダーフラワーを使い、同じショウガ科の春ウコンの苦味を活かしています。一つの植物だけでもこれほど多様だということは、それぞれを見ていくともっと奥深い。その多様な世界を知ることが、なによりも面白いのです。
Q 他の生物とつながりを感じる機会を教えてください
僕たちが暮らす房総半島でキョンが増えています。以前に犬を放し飼いにしていた時は寄りつかなかったんですが、リードをつけて飼うようになってからは僕たちの敷地にも入ってくるようになりました。そして植えた麦をすべて食べられてしまいました。何かを変えると状況は変化してしまう。生物すべてが互いに関わり合って世界が作られていることを実感しています。同時に僕らの活動も周囲に影響を与えている部分もあるだろうし、身の回りで起こっている出来事だけでも変化は次々に起こります。変化は避けられないものとして、たとえば敷地に電気柵を張るかどうか、犬をまた外で飼うべきか、周囲の自然とどう折り合いをつけるか――そうしたことを一つひとつ試しながら、楽しむのが生活なんだと思います。
参加者との対話レポート

千葉県大多喜町で、かつて薬草園だった施設を再生した蒸留所〈mitosaya〉を営む江口さん。取材は、同じく江口さんが営む東京清澄白河の飲料充填施設〈CAN-PANY〉で行いました。ここは〈mitosaya〉をはじめ、国内のさまざまな生産地で収穫した果実など、さまざまな素材でノンアルコールドリンクを製造しています。
「僕らはいろんな原料でお酒や加工品を作っています。たとえばワインであればブドウ、ウイスキーであれば麦、日本酒であれば米と、一般的には酒類にあわせて作物を育てます。けれど僕らはまず原料があり、それをどのように加工するとより美味しくなるかを考える。原料は自然のものなので、タイミングもさまざまです。そのために試行錯誤を続けていて、現在は約200種類ほどの蒸留酒をはじめとする酒類と、ジャムやお茶などの加工品を作っています」
まさに多様な植物のめぐみを活かす江口さん。もう一つの特徴は発酵から自分たちでやることだといいます。

「実はどうしてもお酒にしたいわけではありません。作物のいい状態を長く楽しめるという意味で保存するための製品作りをやっているのかな。お酒もジャムもお茶もつくります。いまはお酒を飲まない人が増えていますが、アルコールにすることで保存性も良くなり、蒸留することで量もぐっとコンパクトになるという魅力があります。量、保存性、移動性などから、とくに蒸留酒はよく出来た飲料。一方で蒸留すると、果実み、酸味、苦みなどは失われてしまう。お酒の文化は技術のせめぎ合いです。果物用の酵母も無数にあり、そこにも生物多様性を感じることができます」

会場からは「バランスの話をとても面白く聞きました。環境の話が、家庭や経済がうまく回るところにつながる。そのバランスをどのように考えているか、もう少しお聞かせください」との声が上がりました。
「常にイメージはあるんです。けれど一つが変われば他が変わるという話なので、常に固定はされていません。日々いろいろなことを考えながら、ビジョンを持って、自分なりにこっちの方がいいかもと判断することが大事なのかな。生物多様性もどちらが正しいというのはおそらく難しい。こっちの方がより良いんじゃないか、と探りながら進めていくことは誰しもにできることではないでしょうか。例えば建築途中に訪れた国立競技場は植物一つなかったけれど、先日緑豊かな場所になっていてびっくりしました。都会の良さは変化が見えやすいところにもあります。みなが意識していないようなところに緑豊かな場所がたくさんある。思わずそういう所でも、葉や実がお茶にできる、香りがいい花が咲くということを考えてしまうんだけど、都市部にも面白い見所はあります」
江口さんの生活を楽しもうという姿勢が、私たちの想像力を広げていくヒントになりそうです。
参加者の感想
「生物多様性について考えるきっかけは、いろいろあるということが印象に残った」
「様々な地域に暮らしている方のお話を聞くことも、生物多様性への考えを深められると思った」
「長期的に見て出てくる影響を考える必要があると感じた」
「身の回りで共存している植物や動物だけでなく、それ以外のものにも興味を持ちたい」

杉山早陽子
SAYOKO SUGIYAMA
和菓子作家

<選書作品>
石川雅之
『もやしもん』
インタビュー
「“見えないけどいる”を感じる」

昨年は新しい「きんとん(練って裏ごししたそぼろ状の餡を、あん玉の小さな芯にまぶした菓子)」の開発に取り組んでいました。伝統的な和菓子はチーズを使いませんが、これは植物性のチーズを使います。発酵したカシューナッツを加工して植物性のチーズにすることで、動物性のチーズのような洋菓子的な先入観を払拭することにしたのです。和菓子においては冒険的な取り組みだと思いますが、そのタイミングで読み返していた『もやしもん』を選びました。
この物語は、菌が見える主人公の周囲で起こる出来事を描きます。私自身も発酵の過程で目に見えない菌を感じることがあります。他の生物以上に身近な存在ですが、目にすることは出来ない。想像することも難しいのですが、見えないものこそ想像することが大切なのかと思います。近年の食における発酵ブームのきっかけを作った一つの作品だと思います。
和菓子は本来、発酵素材を使いません。発酵の過程が加わるとコントロールの効かない工程も増え、通年で同じ味を再現する作り手にとっては扱いにくい。それは品質につながることですが、食の魅力はそれだけでいいのかなとも疑問もあります。私が自分で管理できる素材をお菓子に使うのは、好みの味にできる、鮮度の高いものを扱えるという利点があるから。秋になると山ブドウをよく使いますが、酵素が多いので砂糖を入れると発酵が進んでしまう。発酵してほしくないものが発酵してしまうこともあり、それを止めるために火入れなどの工程もあります。ただあまり火を入れず、できればフレッシュな状態で活かしてお菓子にしたい。その調整をしながら表現を探っているのです。発酵の過程はまさに生物多様性を感じるもので、発酵が鈍る冬には鍋を毛布でくるんで発酵を促進させるなどの操作を行います。
作中で印象に残っているのが「テラフォーミング」について語るシーンです。ここではじめて知った言葉ですが、地球外に人間が住む環境を作るということです。地球外に住むための研究はロマンもあって面白いのかもしれないけれど、考えるほどに地球の現在の環境を見直していくべきなのではないかと逆説的に考えさせられるシーンです。私も大学生のころは海外に強い関心があり、日本に興味はありませんでした。よくある話ですが、向こうで日本のことをあまりに知らないことに気がついて意識が変わったのです。和菓子の文化も同様で、もっと足元を見ないといけない。発酵の文化も「見えないけどいる」というように、その存在を感じることが大切なのでしょう。泡が出てきたり、味が変わったりなど、体感を得ることで見えない存在を感じることができる。でも見えてしまうと、気持ち悪くなってしまうのかもしれません(笑)。
素材も同様に、身近なもので作ろうという感覚が強いのかもしれません。山ぶどうも自生する野生種を使います。市販の果物を食べるととても美味しく、口にした時にお菓子の立場がないと思うことがあります。加工するならば、人工的に改良された品種ではなく野生種を使うことに意味がある。野生種はなかなか渋く、そのままでは食べられません。私は琥珀糖〈鉱物の実〉に山ぶどうを入れるのですが、酸味や渋みが砂糖や寒天と調和します。たとえば甘みのある市販の桃では甘すぎて食べられない。野草を使う料理も流行していますが、野性的で強い素材を人が加工することで食べられることに良さがあるのだと思います。和菓子でもアク抜きをしたヨモギを使うことは誰でも知っています。けれど、その横に生えている土筆はなぜ和菓子になっていないのだろうと不思議に思い〈筆頭菜〉という砂糖菓子にしました。ヨモギの周りには多様な野草があり、それを和菓子に使うことは私にとってとても自然なことなのです。
Q 生物多様性を意識する機会を教えてください
自宅近くで育つ草花をよく観察するのですが、そこに生物多様性を感じます。私は人の手をかけて育った色鮮やかでおおぶりな花よりも、自生する小さな草花のかわいらしさが好きです。米粒よりも小さな花弁がきれいに色づく花を和菓子に昇華させられたら……自然の感性を借りて表現ができることによろこびを感じます。
以前から、鳥と人がともに食べられる実を使ってお菓子を作れないかと考えています。木の実や果実を想定していたのですが、鳥と人が共通して食べる素材は意外に少ない。試した素材もあるのですがうまくお菓子にならなくて。動物に嗜好という概念がないとの指摘もあり、かたちには出来ていないのですが、想像を続けることは大切にしていきたいです。
Q 他の生物とつながりを感じる機会を教えてください
人間も動物も、そのままだと食べるのが難しい食材を工夫して食べる行為を行います。もともと和菓子もドングリの実をアク抜きすることから始まったといいます。最近は松葉の新芽や青い松ぼっくりを刻み、シロップにつけて発酵をさせました。藤の花を発酵させて綺麗なピンク色のドリンクができあがったり、キュウリグサというきゅうりの味がする野草を子どもと食べて味わうことも。子どもと歩いていると、あれもこれもお菓子の素材になるんじゃないかと言うんですね。常に意識を張らずとも、ふとした時に自然の変化や環境に目が行くようになることが大事なのかなと思います。
参加者との対話レポート

京都を拠点に《御菓子丸》の屋号で活動する杉山さん。取材時は通年で展開され、人気のある琥珀糖〈鉱物の実〉〈紅い鉱物の実〉をみなでいただきながら、その言葉に耳を傾けました。
「〈鉱物の実〉は中国茶との出合いから生まれたお菓子です。中国茶に合わせる菓子を依頼されたものの、和菓子といえばお抹茶とあわせるものという固定概念がありました。中国では中国茶にドライフルーツや木の実を合わせると聞き、琥珀糖に柑橘の果皮を入れてみたのです。すると琥珀糖はきれいな黄色になり、香りも立ち上がりました。そこで私は味の表現が気になりはじめたのです。桜餅などの一部をのぞき、和菓子の多くは色と味が一致しない。和菓子において素材の風味を活かした表現を考えるようになったことは、いまの活動の大きな支えになっています」
こうして杉山さんのお菓子は季節や素材の風味を、既存の和菓子とは違うかたちで尊ぶようになりました。素材となる植物や果実にも循環があり、季節によって風味は変わる。《御菓子丸》の和菓子は、そうした生命のバイオリズムと向き合いながら作られます。

参加者からは「和菓子に長い歴史があることをあらためて理解し、感動しました。この多様な表現がなくなることは生物多様性が失われることと相似形にあるように思います。人間の感性や知恵がお菓子に詰まっていて、長い歴史を通じて伝わってきたことを大切にしたい」との声が上がりました。杉山さんは、身近な植物、果実を扱うからこそ、それらが失われることは菓子の多様性が失われることをも意味します。地球上には、人間が認知していない種が数えきれぬほどにあるそう。同時に、私たちが認識することなく絶滅していく種もあるだろうと言われています。杉山さんはそれを受け、次のように話します。

「私は伊勢の出身で、素潜りをしている地の知人から魚を直送で送ってもらっています。
最近魚が取れなくなったから加工の仕事を始めたと聞き、ついこの間まで採れていたものが採れないという状況に驚いています。小規模でやっている人にも影響が出るほどの変化というのは恐ろしくなりますね。お菓子作りでうま味を出すために昆布もよく使うのですが、それも採れないという話を聞きます」
また「和菓子のもつ華やかさは同時に、季節を感じられるものだと気づきました。私たちが日常的に自然と触れる機会は限られていますが、視覚的に日常のなかで自然とつながる機会を与えてくれます」という参加者の声が。私たちが生物多様性を感じる機会は、日常のあらゆるところにあるのだと杉山さんの取材から浮かび上がりました。そしてそれは、何気ない日常のよろこびのなかにも潜んでいるのでしょう。
参加者の感想
「意識しようとすれば、生物多様性とのつながりは日常にあふれていることが改めてわかった。杉山さんのお話を聞いた後に外を歩いてみると、目に入る自然への見え方が変わった」
「良い感じの混乱でした。後からジワジワきそうです」
「紹介された漫画を通して、目に見えない微生物や菌類の多様さ・面白さを感じると同時に、それらが生物多様性の中で重要な役割を果たしていると知った」

生物多様性に関する
生活者意識調査
WWFジャパンは、2025年1月に全国10~60代551名を対象に「生物多様性に関する生活者意識調査」を実施しました。調査結果を抜粋してご紹介します。
Q. 日々の暮らしの中で、生物多様性とのつながりを実感するのはどんなとき?
Q. 「生物多様性」を言い換えるならどんな表現?
Q. 生物多様性について、人と会話することはありますか?
「生物多様性について人と会話することはほとんどない・一度もない」との回答が83.1%となり、普段の暮らしの中で話題にあがることが殆どない状況がうかがえました。

生物多様性の豊かさを示す「生きている地球指数」は、過去50年間で約73%減少し、生物多様性の保全と回復に向けた取り組みが急務となっています。生物多様性は私たちの暮らしに密接に関わっているからこそ、生活者も自分ごととして、生物多様性を脅かし続けてきたこれまでの生産や消費のあり方を見つめ直す時が来ているのではないでしょうか。
「コミック・ダイバース」を通して、あたりまえの日常生活の裏側でどのように生物多様性の恩恵を受けているのか、この先ますます危機が深刻化すると暮らしがどうなるのかを想像し、身近な人たちとの会話を増やすきっかけになることを願っています。
vol. 1
12名の選書者が語る
マンガの中の生物多様性
漫画家や研究者、編集者や書店員、アーティストなど計12名が、馴染みあるマンガのワンシーンからそれぞれの視点で生物多様性を読み解きました。また、選書者が登壇するトークイベントも開催。さらに、本サイトの内容を一冊にまとめたブックレットを限定1000部作成し、書店や図書館、公共施設や教育機関にて設置・配布いただきました。
※ブックレットの配布は終了しています
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里中満智子
MACHIKO SATONAKA
日本漫画家協会理事長
-
荻原貴男
TAKAO OGIWARA
REBEL BOOKS店主
-
武田砂鉄
SATETSU TAKEDA
ライター
-
越智康貴
YASUTAKA OCHI
フローリスト
-
東梅貞義
SADAYOSHI TOBAI
WWFジャパン事務局長
-
夢眠ねむ
NEMU YUMEMI
夢眠書店店主
-
荘子it
SO SHI IT
ラッパー
-
辻山良雄
YOSHIO TSUJIYAMA
Title店主
-
AKI
INOMATAアーティスト
-
山本美希
MIKI YAMAMOTO
マンガ作家/研究者
-
金城小百合
SAYURI KINJO
マンガ編集者
-
田口康大
KODAI TAGUCHI
教育学者
選書一覧
里中満智子
MACHIKO SATONAKA
日本漫画家協会理事長
『とんから谷物語』 手塚治虫
『絶滅動物物語』 うすくらふみ・今泉忠明
想像力があるほどに
人は優しくなれる

里中満智子
MACHIKO SATONAKA
日本漫画家協会理事長




『とんから谷物語』 手塚治虫
『絶滅動物物語』 うすくらふみ・今泉忠明
想像力があるほどに
人は優しくなれる

©Tezuka Productions
私たちが幼い頃には生物多様性という言葉も概念もありませんでした。けれど私たちは物語を通じて、世の中にはいろいろな生き物がいることを認識していました。そしてその生き物には現実の生き物もいれば、人の意識のなかで生きる架空の生き物もいたのです。
私がはじめて漫画と出合ったのは小学校1年生のことです。小学生になるので毎月雑誌1冊を買い与えようと両親に連れられた書店で手にしたのが、創刊間もない月刊漫画雑誌『なかよし』(講談社)でした。そこで手塚治虫先生の連載されていた『とんから谷物語』と出合います。まさにこの作品は、生物多様性、環境問題を含め、文明と自然との対立を小学生向けの漫画として描いています。学校の教科書ではないけれど、自然と物語を通じて社会問題に親しめるように可愛い絵で描いてくださっていました。
物語の舞台であるとんから谷は、作中で戦後復興期から高度成長期にかけて実際よくあったようにダムの建設で水の底に沈んでしまいます。そこで谷に暮らす生き物や植物が擬人化され、物語の中で意見を交わします。動物や植物たちにそれぞれの思いや立場があり、それ故に反発し合う。その意見が入り乱れる姿が大変賑やかなのですが、読者はそれを漫画という形だから素直に受け止めることができます。
このように他の生命体を擬人化して描く手法は古典的とも言えますが、私たちはやがて成長するとともに物語で親しんでいた動物を搾取していることに気がつくのです。
私には小さい頃から絶対に食べ残せなかった食材があります。それがしらす干し。大きな魚の切り身や肉の一片は私一人が奪った命ではないと言い訳できるけれど、しらすは無数の小さな命を私一人がいただくもの。いまもそこに大きなプレッシャーを感じます。私たちが生きていくことは残酷な側面が常につきまとい、空腹を満たすだけでなく、味わいたいという欲求ももっている。酷いことではあるけれど、生きるとはそういうことだと自覚することが必要です。
私が小学生の頃に学んだ生態系の学説もいまではずいぶんと違っていることが多いのですが、海から枝分かれした生命の果てに私たちがいるわけです。昆虫も、遠い昔の先祖でつながっているかもしれないと想像を巡らせます。私たちは一部の昆虫を害虫と表現するけれど、彼らから見るとこちらこそが非常にひどい生き物かもしれない。人類が地球上における最大の害であるという設定はSFで使い古されたものですが、つまり私たちは私たちのものの見方を真剣に考えなければならない。昆虫がいなければ森は循環せず、豊かな土壌ではなくなるといいます。豊かな植物分布は彼らとともにこそある。広い地球に無駄はなく、みななにかの必然があって存在している。なんと素晴らしい仕組みで、うまくできているんだと感嘆してしまいます。だからこそ、地球における生命の循環を人間の都合で排除してはならない。

©うすくらふみ・今泉忠明/小学館
絶滅動物物語
[小学館]
生物多様性とはつまり想像力なのではないでしょうか。私たちはたまたま人間に生まれ、言葉を使って他者とコミュニケーションを取り、この地球のすべてを分かったつもりで暮らしています。けれども祖先がどこか枝分かれしていたら別の生き物だったのかもしれない。そのうえでもう一冊薦めたいのが、『絶滅動物物語』です。この作品は言葉ではわずか数行で表現されることを、漫画では絵でもって雄弁に伝えることが出来ることを示す好例です。タイトルにあるように絶滅した動物にまつわる物語ですが、絵であれば絶滅した生物が表現できる。あらためて絶滅の経緯を物語で見せられると思わずため息がこぼれてしまうのですが、子どもにこそ読んでもらいたい。理屈で理解できることと、そこに感情がついていくことは別です。こうした作品こそ読者に届ける意義があると思える作品です。
同時に私たちはいわゆる擬人化されたキャラクターに慣れ親しんでおり、そこにも人間の想像力が働きます。本来記号でしかないキャラクターに感情移入ができる能力を持っていることは人間の素晴らしい可能性です。生物多様性というのは、生物は多様であり、その多様性こそが地球を豊かにしていることを文字から理解できます。けれど現実の生活になかなか結びつかない。だからこそ想像力が欠かせません。たとえばイルカやクジラは賢い生き物だから殺してはいけないといいますが、その知性という基準は極めて人間の物差しで見ているもので、私たちには理解できない何らかの能力でコミュニケーションを取り合う生物がごまんといるわけです。このように人間主体の考えで、私たちは多くの間違いを犯してきました。
この世のありとあらゆる物語は、もし自分が他者であったらという感情移入ができるもの。つまり物語に親しむことは他者の立場を疑似体験することなのです。それは人の立場に限らず、あらゆる生命の立場でものを考えることも促します。私は思春期の頃にフランツ・カフカの『変身』を読み、不条理よりも嫌悪感が先に立ちました。主人公が別の生物に変身する設定はおとぎ話に限らず、神話、伝説にも多数見られます。ここで私は嫌悪するものと向き合わねば、物語を理解することができないのです。
漫画はとても感情移入がしやすいツールです。キャラクターと設定が荒唐無稽でも、そこにリアルな心情を描くことで物語として成立します。客観的な説明はなくても、登場するキャラクターの台詞で物語は進行していきます。そこにニュートラルな立場がなくとも物語は進行していくし、どんな短い物語にもいくつもの主張と正義があるものです。そこに登場する複数のキャラクターの主義主張にあるからこそ漫画は面白い。私は子どもたちに自分で設定を考え、漫画を描いてみてほしいとの思いをずっと抱いています。対立する意見を持ったキャラクターがいるほどにドラマが生まれていき、作者はそれぞれの正義感や意見の違いに向き合います。想像力はあればあるほど人に優しくなれます。その想像力を鍛えることは、生物多様性の理解をも促すものではないでしょうか。
里中満智子・談
荻原貴男
TAKAO OGIWARA
REBEL BOOKS店主
『へんなものみっけ!』早良朋
「好き」は時として
理屈を越える

荻原貴男
TAKAO OGIWARA
REBEL BOOKS店主




『へんなものみっけ!』早良朋
「好き」は時として
理屈を越える

©早良 朋/小学館
へんなものみっけ!
[小学館]
交通事故のカモシカを解剖、まる五日間森に潜んでフクロウを捕獲、砂浜に3年埋めた鯨で骨格標本を制作。博物館の仕事とその舞台裏を描く『へんなものみっけ』は、自然科学のおもしろさを生き生きと伝える作品だ。山へ海へと生き物たちを追いかける研究者たちの奮闘を見ていると、自分でも探して観察したくなる。興味・関心が刺激され、もっと詳しく知りたくなる。
事務員の薄井と鳥類研究者のキヨスが主人公。ほかにも海洋生物、植物、昆虫などさまざまな分野の研究者が登場する。博物館の庭に集う花見のシーンは印象的だ。それぞれの研究分野について楽しそうに語りあう彼らの様子から「好き」が伝わってくる。きっと小さい頃から鳥が、動物が、虫が、魚が大好きで、あの頃のワクワクを持ち続けたまま大人になって、いまここにいるんだとわかる。
各エピソードには「好き」から生まれた好奇心と熱意、科学的知識が散りばめられている。作者の早良自身も大学で動物を研究し、長く博物館で働いた方だから、本作が発する「好き」にはリアリティがある。理屈抜きに「好き」という根源的な思いは、生物多様性について考えるときにもとても重要なのではないか。
地球の生態系は、数百万種の生物が複雑に関連し合い絶妙なバランスを保ちながら成立している。食糧や水、気候の維持など、私たちは生態系の恩恵を受けなければ生きられない。生態系システムの全体はあまりに複雑で誰も変化を予測できない。ひとつの種が消えるだけで、予想外の大きな影響をもたらすこともある。だからどんな種も絶滅させることなく、全体をなるべくそのまま保っていこうというのが生物多様性保全の考え方だ。
たとえば、世界の食料の9割を占める100種の農作物のうち、2/3以上がミツバチなど花粉媒介者の存在が不可欠と言われる。仮に花粉を媒介する生き物がいなくなったら、風景は変わり、食糧が不足し、人間社会は混乱に陥るだろう。ミツバチがいなくなったら、人間はとても困る。でも、ある生き物の絶滅を、人間が困るか困らないかで語るのってどうなんだろうか?人間への影響や生態系システムへの影響は確かに重大だが、すべての種はそれ自体がそもそも尊いのではないか?「好きだから、守りたい」そのくらいシンプルなところから出発してもいいんじゃないか。「好き」は時として理屈を越えるから。
1巻の第1話に、のちに博物館の原型となった「ヴンダー・カンマー(驚異の部屋)」の話が出てくる。かつてヨーロッパで作られていた珍品・奇品を集めた部屋のことだ。研究のために収集したのではなく、「面白い」や「美しい」、つまり「好き」を追求した結果、博物館という後世につながるギフトとなった。おそらく、その驚くべき成果は「義務感」ではなく「好き」が原動力だったからこそ生まれたはずだ。「好き」は強い。努力を努力と感じず楽しんでできるとき、人はより大きな力を発揮する。
個別の生き物への「好き」が、生物多様性全体を考えるきっかけになるかもしれない。これはその小さな「好き」を育む貴重な作品だ。
荻原貴男
武田砂鉄
SATETSU TAKEDA
ライター
『ふらり。』谷口ジロー
生物多様性とは、
なんともいえない匂い

武田砂鉄
SATETSU TAKEDA
ライター




『ふらり。』谷口ジロー
生物多様性とは、
なんともいえない匂い

©PAPIER/谷口ジロー
ふらり。
[ふらり]
力強く生える雑草で足を切ると痛い。うっかり虫を潰してしまうと臭い。なんかよくわかんないけど痒い。東京出身とはいえ、多摩地方の緑豊かな場所で育ったので、その手の痛い・臭い・痒いを身体が覚えている。親から「ちょっとそのまま洗濯機に入れないでよ」と頻繁に言われ、脱いだ洋服を風呂場にある洗面器に入れて、いったん水に浸けてゆすいでから洗濯機に入れた。正直、適当にゆすいだだけだったので、よく怒られていた。
それくらい毎日泥だらけで帰ってきたのだろう。石をひっくり返すとおびただしい数のダンゴ虫がいる。フンにハエがたかっている。木に蜜を塗ってカブトムシを待ち構えているとカナブンばかりがやってくる。毎日のように飽きずに周囲を駆け回っていたのは、ずっと予想外のことが起きたから。草むらを駆け回った後の、なんともいえない匂いを鼻が覚えている。
爪の奥のほうに土が入ってしまい、なかなか落とせなくなっちゃうような生活から遠ざかって久しい。ものすごく大げさにいえば、あの頃は、人間が管理できている世界なんてほんの少しの部分であって、未知の暮らしにあふれている実感があった。家で宿題をしていたら、なぜか膝の上に毛虫がいた。奇声を上げながら親の元に行くと、奇声を返されてしまった。
江戸の町を同じ歩幅・二尺三寸(70㎝)で歩く男、そして、その視線を追いかけるように町を描写する『ふらり。』を読んでいると、まったく知らないはずの江戸時代の匂いがたちこめてくる。生活の匂い、そして、生き物の匂いがする。歩いている最中に亀を売っている屋台を通りかかると、大きな亀を十文で買った男は、「もとはといえば放生のために捕まえてきたもの それを人が買って解き放つ よおく考えると どこかおかしい」と言いながら、亀を川に放つ。「もう捕まるなよカメさん!」と言いながら。
足元に黒蟻の行列がやってきた。自分の体の何倍ものの木の葉をかついでいる様子に感心しながら、「もしかすると わしもおまえたちと同じかもしれんな」と呟く。蟻は、クワガタムシの死骸を解体しながら、みんなで運んでいる。蟻の目線を想像する。
「飛べない虫たちにとって この地平は 果てなく 途方もない世界に見えているのかもしれないな」
この世界は、無数の生き物で構成されていて、それらは、それぞれの目線を持っている。私に覗かれたダンゴムシは私をどう見たのだろう。カブトムシを待っている私にがっかりされたカナブンの気持ち。生物多様性というのは、生物がたくさんいる状態を守りましょうとの意味合いで使われるが、自分の感覚としては、自分とは違う生き方、目線を持っている存在がたくさんいて、そっちの目線を想像したら世界の見え方が変わるよね、なんて感覚がある。ちょうどこの作品の男が蟻ではないように、自分はダンゴムシではないのだが、あっちの目を想像してみることが生物多様性の入り口ではないかと思う。最近、すっかり忘れていた、あの、なんともいえない匂いを取り戻したい。
武田砂鉄
越智康貴
YASUTAKA OCHI
フローリスト
『Petshop of Horrors』秋乃茉莉
意思は疎通せずとも
観察で学べる

越智康貴
YASUTAKA OCHI
フローリスト




『Petshop of Horrors』秋乃茉莉
意思は疎通せずとも
観察で学べる

©秋乃茉莉/宙出版
Petshop of Horrors
[宙出版]
幻獣や絶滅した動物などを扱う架空のペットショップを舞台とする『ペットショップ・オブ・ホラーズ』は、ほとんどが一話完結型の作品です。毎回ペットを求める客がやってきては特定の条件で動物を渡すのですが、だいたいみながそれを守らずに大切なものを失います。彼らとともに渡されたお香を焚くとペットが人間に見えてきたりしますが、擬人化されたペットとのあいだにドラマがあり、教訓めいた内容とともに人の滑稽さが描かれます。対して動物はある意味で衝動に正直で、人の物差しで測ることができないことを繰り返し描く。動物が本来的にもつ性質を基軸に話が展開されます。
うちには兄弟猫がいるのですが、それぞれに衝動があり、性格もまったく違います。種による基本的な性質はあるけれど、それとは別のレイヤーで個別のパーソナリティがある。個体差という言葉はとても便利ですが、それを額面通りではなく理解したいという思いがあります。作中で動物は擬人化され、あやかしのような存在として描かれます。僕自身もうちの猫をつい人間の感覚で捉えようとしてしまうのですが、だいたい思うようにいきません。僕は基本的に枠組みを破壊することがとても好きなので、仕事のやり方も花との接し方も枠組みにあまり捕らわれず生きてきました。一般的なルールを悪いものだとも思っていないけれど、なぜそれが必要なのかを考えてしまう。その意味で独自の視点を養うことを大切にしたい。言葉が通じないもの、意思の疎通ができないものを観察することでいろいろなことが学べます。観察は対象を理解するのに欠かせませんが、対して人間は自ら説明してくるのでほとんど観察ができない。説明されると、言葉の方が強く残ってしまいますね。
僕は基本的に生物を殺しません。特定の虫が減少することで植物の繁殖のスピードが落ち、その循環でさまざまな生物の食も損なわれているという話を聞きます。人は花束を見て、そこになんの花が入っているかを覚えていないことがほとんど。そもそも花が畑からきていることは理解していても、花を花束のようなイメージで捉えていたりします。僕は花束を作るときに少しでも土を感じてほしいと思っていて、植生的なデザインを心がけています。時間によってどこが開くか、伸び方なども考慮してブーケやアレンジメントに落としこむ。それでも漠然と色と形と質感だけが人の心に残るのは、言葉だけが心に残ることとよく似ています。
たとえば殺虫剤を使わない花農家は、特定の花が好きな虫を避けるために、その虫がさらに好きな花を作ることで虫の害を回避するルートを作ることがあります。その行程はとても大変で簡単な言葉では表現できません。言葉はとても危険な存在。みな、それほど言葉を大切にしていないのにすごく信頼している。もやもやしたことも特定の箱に入れると、自分がいいものになった気持ちになれるから。僕は言葉が通じないものや目に見えないものがすごく好きなので他の生物が好きなのかもしれません。独創的で独立心をもち、自立していこうとすると、同時に他に対して博愛的であることがとても重要です。それを教えてくれる一冊だと思います。
越智康貴・談
東梅貞義
SADAYOSHI TOBAI
WWFジャパン事務局長
『釣りキチ三平』矢口高雄
『ダーウィン事変』うめざわしゅん
人は自然と生きものとのつながりの
世界でしか生きられない

東梅貞義
SADAYOSHI TOBAI
WWFジャパン事務局長




『釣りキチ三平』矢口高雄
『ダーウィン事変』うめざわしゅん
人は自然と生きものとのつながりの
世界でしか生きられない

©矢口高雄/講談社
釣りキチ三平
[講談社]
真っ先に思い浮かんだのが、子どもの頃に出合った『釣りキチ三平』です。ずいぶんと久しぶりに読み直したのですが、当時を鮮明に思い出すことができました。本作はたびたび有明海を舞台にしており、私はこの漫画を通じてはじめてムツゴロウと有明海に出合ったのです。
1990年代の終わりから2000年代初頭にかけて、渡り鳥や干潟の保全プロジェクトで佐賀県鹿島市に通いました。ここは作中にも描かれる街です。干潟を守りたいとの思いから始まったプロジェクトですが、通ううちにいろいろな生き物を知ることになります。ムツゴロウ、ワラスボ、アゲマキ、エツ……これらはどれも美味しく、干潟はそれらが生育するのに優れた環境でもありました。1997年4月、同じ有明海の長崎県諫早湾が293枚の鉄板で締め切られます。ここにも通い続けますが、干潟でとんでもない数の生物が死んでいく姿を目にすることとなります。私たちは環境保全NGOとして、渡り鳥の国際的な飛来地が失われたと主張しました。それは確かに大事な一面ですが、ここは人々が暮らしを営む漁場でもあったのです。諫早湾の干潟が失われ、渡り鳥の飛来地が失われ、人々の暮らしが失われました。
釣りの物語であり、ライバルと競い合う物語であり、生き別れた父を探す物語である『釣りキチ三平』。しかしその物語はやはりドラマチックな漁法や生きものがいて初めて成り立つもので、そこに人々の想像力を刺激する要素があります。有明という海と人の暮らしと魚があって、初めて物語が成り立つことを描ききった矢口さんの視点にはあらためて驚かされました。
生物多様性には、種の多様性、生態系の多様性、遺伝子の多様性の3つの視点があります。しかしそれぞれに1つの視点で捉えられがちで、包括的に見られることが少ない。しかし『釣りキチ三平』はそれらすべてを繋げて描いています。環境保全活動の難しさは、人々が環境との繋がりを感じにくいことにあります。その問題の重要さを伝える活動自体がある種のパラドックスを抱えており、そもそも繋がりを感じられないので重要だと思わない。だからこそ私たちWWFは、その繋がりをみなさんに感じていただきたいのです。

©うめざわしゅん/講談社
ダーウィン事変
[講談社]
もうひとつは『ダーウィン事変』です。主人公は人間とチンパンジーの間に生まれた交雑種のヒューマンジー、チャーリーです。第一話でチャーリーに対し、級友が「致死的な病原菌を持ったネズミが噛みつこうとしたらどうするか」と問いかけるシーンがあります。するとチャーリーはネズミを「撃ち殺す」と答え、さらに「たとえ君でも撃ち殺すけど」と言葉を続けます。当初はアニマルライツを描いているように思えたのですが、話を進めていくとそれを主題としているのではないことがわかってきました。作中の表現は非常に強烈で、あえて嫌悪感や反発を生むように描いています。ではなにを主題としているか。それは、人は特別な存在なのか、動物と同じなのか違うのかということです。これを繰り返し描き、その問いを言葉ではなくシーンの描写で伝えています。人を撃ち殺すようなことは許せないと読者は思いますが、それはまた私たちが人間だけを特別視している前提をいま一度意識させられます。私もこの表現に強く反応しましたが、この作品が一般に広く読まれているということは、作者の問いかけがとても多くの人々に響いている証左でもあります。私たちのあたり前、むしろ意識さえしない前提や考えに何度も揺さぶりをかけるような作品が本作なのです。
人は他の動物や自然によって支えられていると単純に言えるほど、現実は美しく穏やかなものではありません。作品の世界でも、日本の法律上でも、動物は無主物とされ、誰かが見つけて拾えば所有物にできる。つまり自らでは権利をもたない。チャーリーは超人的な身体能力をもつスーパーマンとして描かれていながら、人間のヒーローのような正義感は持ってない。チャーリーは動物と人間の間に差がないと言っていますが、それは読者がどう思うかという問いかけでもあります。彼は常に人間を特別だという立場にも、動物だけを優先して守る立場にも立たず、ただ両者は同じだと言い続けている。それに対して状況や展開で、私たちはチャーリーに対して好悪入り交じった感情を致します。現状、この物語がどのように結末を迎えるかが想像できません。
私たちWWFの活動は、野生動物を守る活動だと思われることが多い。もちろん常に生きものとどのように向き合うかを問い、その根底には守りたいという気持ちがあります。しかしこの活動はそれだけではなく、人が自然との繋がりの中でしか生きられないことを伝える仕事だと思っています。パンダがいなくなったら困りますかと聞かれたことがありますが、パンダがいなくなって困る、困らないということではない。パンダが生きていけなくなる環境は、人にとっても大きな不利益をもたらすものだということです。有明海でも諫早湾の干拓工事で、有明海全体の漁業に悪影響が及び、そこで暮らしを営む人々の生活に困難が生まれました。人か自然かという対立構造ではなく、自然というシステムがなくなると人が生きられないことはみなよくわかっているはずです。生物多様性もまた、私たちの日常に繋がっている問題であることを少しでも知っていただきたい。人はトラが生きていけなくなっても、パンダがいなくなっても、人間だけはいまの生活が続くと信じています。明日も食べて寝て暮らしていけると思っていますが、その約束はありません。『ダーウィン事変』でもこの問いかけが描かれていると感じました。
人は自然と生きものとのつながりの世界でしか生きられない。動物との関係には改善すべきこと、解決すべきことは多々ありますが、それでも他の生きものと繋がっていきたいとも思っている。生物多様性の受け止め方に正解はありません。みなさんのなかに「自分はどんな自然や生きものとつながっていると感じられる?」問いという形で残ってもらえるとうれしく感じます。まずはその第一歩として、自身の受け止め方を探ってください。
東梅貞義・談
夢眠ねむ
NEMU YUMEMI
夢眠書店店主
『猿飛佐助』杉浦茂
三つ巴が織りなす
生物の関係性

夢眠ねむ
NEMU YUMEMI
夢眠書店店主




『猿飛佐助』杉浦茂
三つ巴が織りなす
生物の関係性

©杉浦茂/初出:「おもしろブック」1955年4月号別冊付録(集英社)/図版:「杉浦茂傑作選集4おもしろブック版猿飛佐助」(青林工藝舎)
猿飛佐助
[青林工藝舎]
小さい頃から杉浦茂の漫画が大好きだった。あえてジャンルで言うと「ナンセンス・ギャグ漫画」で、現在60〜70代の方と面白いですよね、と話がはずむ時代の漫画である。彼の漫画にはたくさんの生物が出てくるのだが、今回選んだのは『猿飛佐助』だ。甲賀流忍術の名人こと猿飛佐助が真田十勇士となり徳川に立ち向かう物語である。『大蛇はガマをやぶり ガマはナメクジをおい ナメクジは大蛇をしりぞける三つどもえの血斗!』……生物多様性と聞いた時、真っ先にこの三つ巴が頭に浮かんだ。漫画雑誌の予告ページなのだろう、この丸々一ページ使ったコマが印象的である。通常は“三竦み”と表現されることが多いのだが、ヘビはカエルを飲みこみ、カエルはナメクジを食べ、ナメクジはヘビを溶かしてしまうらしい。共存の真逆では?と思われてしまうかもしれないが、私にとってこういった関係図こそが生物同士の共存であり、自然だと考える。実際に見たことのない”カッパ“や想像上の生きものなども出てくるのだが(私の祖母はカッパに足を引っ張られたことがあるらしく、川に入るときは注意しろと口酸っぱく言われていた。こういう話も実は大事だなと思う)、登場するほとんどが小さい頃からお馴染みの生きものである。
作中に、カエルがタバコのヤニを食べさせられ、内臓を吐き出して洗っている描写がある。ていねいに洗い、葉っぱの上にちょいと置いた隙に敵に内臓を奪われ、ハゲタカがそれを食べてしまう。内臓を失ったカエルは力尽きてしまうのだが、本当にカエルって内臓を出して洗うの?と気になり調べた。異物が入ると本当に内臓を吐き出して、なんと手でこすって洗い、綺麗にしてから体内にしまうらしい。漫画だからトンデモな描写をしているのかと思いきや、事実に基づいておりびっくりしたのをいまでも覚えている。
カエルといえば私の姉は無類のカエル好きで、車の窓を開けて田んぼの前を通るだけで「あっ、ここにはオタマジャクシがいる」と匂いだけでわかるような人だったので、後ろからついてまわってよくオタマジャクシすくいをした。すくったオタマジャクシは水槽で飼育し、足の生える過程を見守り、カエルになったら元いた田んぼに返しにいく。カエルはガガンボやアブラムシを食べてくれるので、田んぼにとってありがたい存在なのだ。さらに田んぼの生態系をみると、ヤゴはオタマジャクシを食べ、フクロウ、ヘビ、タヌキがやってきてはカエルを食べる。もっと広く生態系を見てもそうだ。お互いを脅かしつつ、お互いの暮らしを支えている。
そのバランスを急に崩したのは明らかに人間である。昔はもうちょっと上手くやれていたのに、人間がもう少し賢ければ他の生物たちに迷惑をかけなかったのではないか。私の時代には当たり前に存在していた生きものでも、いまの時代では全く見たり触れたりしたことがない子も多くなってしまったのではないだろうか。ヘビや、カエルや、ナメクジのようなかつて身近だった生きものたちがカッパほどの“幻の生きもの”にならないように、三つ巴の邪魔をせぬよう共存していきたい。
夢眠ねむ
荘子it
SO SHI IT
ラッパー
『HUNTER×HUNTER』冨樫義博
人間のための生物多様性を
外へと開く

荘子it
SO SHI IT
ラッパー




『HUNTER×HUNTER』冨樫義博
人間のための生物多様性を
外へと開く

©P98-24
HUNTER×HUNTER
[集英社]
音楽を作る時にコラージュ的な手法をよく使う。自分が惹かれる多種多様なものを組み合わせるのだが、ある意味、いろいろな可能性を一つの箱の中に閉じ込めるような行為でもある。そうやって作った音楽は、結局自分の趣味の世界に閉じたものじゃないかと考えたりする。それはまるでヴンダーカンマー(脅威の部屋)のようだ。美術館や博物館の元になったと言われるヴンダーカンマーとは、死んだ動物の剥製や貝殻などを集めた部屋のことだ。見知らぬ珍しいものを陳列した空間は確かに人をワクワクさせるけれど、そうやって自分たちから隔てられた対象として鑑賞するだけでいいのだろうかと思う。
「生物多様性を保つ」といっても、たとえば、現存するあらゆる生物のデータを抽出して保存し、それらが絶滅した後にいつでも情報としてアクセスができ、クローン技術で蘇らせることもできたとする。しかし人間が人間のために、多様な生物をすべて管理できればいいのだろうか。人間が学習や娯楽のために鑑賞したり、家畜として利用したり、愛玩動物として飼育したり……。生物は人間のために生まれたのではないから、そういう捉え方は根本的に間違っているのではないだろうか。でも、どうやったら「人間のため(だけ)の生物多様性」の外まで想像力を広げられるのだろう。これはただ道徳的に頭で考えるだけでは難しいことだ。
フィクション、特に漫画のように娯楽性も高く、かつ深く感情移入しやすい表現を通じて、人間以外の生物の尊厳や命の大切さを、観念的にではなく掴むことができるかもしれない。たとえば冨樫義博の『HUNTER×HUNTER』は、王道の少年バトル漫画のモチーフをふんだんに盛り込んだ娯楽作だが、作中の「キメラアント編」は、人間とそれ以外の生物との関係について深い洞察をもたらす。他の生物を捕食することでその特徴を次世代に反映させることができるキメラアントが、栄養価が高く美味な人間を捕食対象にしはじめたことで、人間とキメラアントは互いの種の生存を賭けた戦争状態になる。非常に高い知能をもったキメラアントの王・メルエムは、人間を下等な生物として見下しており、残酷なキャラクターとして描かれている。
だが、キメラアントがしていることは、いまの現実の世界で人間が他の生物に対してしていることとそれほど違わないように思う。にも関わらず、立場が逆転した状況を想像すると、このおぞましさに戦慄する。残酷な争いや恐怖の感覚によってはじめて本当の反省が生まれるシーンが描かれる。人間に対して非情だったメルエムは、「軍儀」という囲碁や将棋を複雑にしたようなゲームで、コムギという人間のキャラクターと興味本位で対局を重ねるのだが、そのなかでだんだんと人間に対する愛着の念が湧いてくるところがとても興味深い。ゲームとはいえ、争いを通じ、はじめて相手に対する尊敬の念が生まれるのだ。このことは、他の生物を、捕食したり、自分たちの利益のために利用したり、あるいは道徳的に保護するかの「対象」としてしか捉えていない、現在の人類の想像力に限界があることを示している。このような作品が、人間が人間以外の生物を本当の意味で尊重し、「人間のための生物多様性」の外へと開くための、想像力の源泉になり得るのではないだろうか。
荘子it
辻山良雄
YOSHIO TSUJIYAMA
Title店主
『歩くひと』谷口ジロー
それぞれ生きたいように
生きていく

辻山良雄
YOSHIO TSUJIYAMA
Title店主




『歩くひと』谷口ジロー
それぞれ生きたいように
生きていく

©PAPIER/谷口ジロー
歩くひと 完全版
[小学館]
新型コロナウイルスによる行動制限により、帰省することもためらわれた、2021年の正月。家に居ることにも飽きたわたしは、最寄り駅から四駅だけ電車に乗り、ふだんは降りることのない駅からあてもなく歩きはじめた。街には人の姿がほとんどなく、正月らしい、しんとした青空。どこかの見知らぬ家の軒先には、ツワブキやスイセンがその花を見事に咲かせており、人の社会とは関わりがなく、春はやって来るのだと思った。
路地を抜けしばらく進むと、川と川とが合流する地点に出た。立ち止まって、しばらく流れを見ていると、向こうから白鷺が飛んできて、またどこかへと飛び去っていく。こうしたゆっくりとした時間を過ごすのは、考えてみれば久しぶりのことだった――
『歩くひと』の主人公は、ストーリーの中で名前を呼ばれることがなく、言わば匿名の存在である。彼は〈わたし〉かもしれないし〈あなた〉かもしれない。だから本書を手にしたとき、わたしはすぐに「この主人公はわたしだ」と思った。彼はマンガのなかで、街の路地を、公園を、川べりを、黙ってゆっくりと歩く。そして歩く速さで周りを見ると、いつもは目に留まらないものが見えてくるのだ。
護岸整備された都市の川には鯉がゆうゆうと泳ぎ、近くの雑木林には野ウサギの姿が認められる。誰かが木に架けた巣箱からは、セキレイだろうか、小鳥のさえずりが聞こえてくる。空き地の桜の老木は毎年決まった時期に花を咲かせ、その花びらを絨毯のように、惜しみなく幹の周りに散らせていく……。人間の営みのすぐ近くにありながら、自然の掟に沿って生きている動物や植物の姿が、そこにはあった。
谷口の描く自然は人間のためにあるのではなく、それぞれ生きたいように生きているように見える(だからその姿は生命力に溢れており、たとえば雑木林など、ときに迫ってくるような印象さえ与える)。そしてその世界のなかでは、人間も生物たちの〈生〉を尊重しているように見え、人間も自然の一部であるという事実が、何も語られなくても伝わってくる。
最終話。主人公夫婦は、飼っている犬が庭から掘り出した貝殻を、それがもとあった海に返しにいく。遊歩道を抜けると、目のまえには、岩礁と海のある景色が広がっていた。それは、ただ海が描かれている場面かもしれないが、ここまで主人公とともに、歩く速さで世界を見てきた読者には、この海の周りには、豊かな生態系が網の目のように広がっていることが見て取れるだろう。ここに至るまで描かれた、多くの動物たちや植物たちのこだまが、このひとコマには響き渡っているのである。
冒頭に書いたようなあてもない長い散歩が、いまではわたしのひそかな愉しみとなった。それは、自らを自然に同化させる時間、この世界には人間以外にもそれぞれの〈生〉を生きているものたちがいることを再確認する時間で、そうした〈違い〉こそが大きな安らぎを与えてくれるのである。
辻山良雄(Title店主)
AKI INOMATA
アーティスト
『風の谷のナウシカ』宮崎駿
生物とのつながりを
諦めたくない

AKI INOMATA
アーティスト




『風の谷のナウシカ』宮崎駿
生物とのつながりを
諦めたくない
風の谷のナウシカ
[徳間書店]
宮﨑駿の同名映画の漫画作品『風の谷のナウシカ』は、私たちの世代にとって誰もがなんらかの形で影響を受けている作品ではないでしょうか。近年はコロナ禍でマスクを着用する状況が作中で描かれる状況に似ており、文明崩壊の予言的な内容も含めて注目された印象があります。文明が行き過ぎたために自然が破壊され、腐海が持つ自浄作用が人間にとっては毒となるという作品の世界観は考えさせられるものでしょう。作中で現実の生物は登場せず、王蟲などの想像上の多様な生物が出てきますが、それらに「生きている」という生命のリアリティを感じます。
私は人間以外の生物や自然と共同しながら制作をしています。生物のリアリティを感じての制作活動において、さまざまな生物が減り、絶滅していく状況を目の当たりにしています。その状況に対して何かができるわけではないのですが、たとえばビーバーを題材とする作品『彫刻のつくりかた』(2018〜)では、ビーバーの魅力にとどまらず、ビーバーと木、木の中に住むかみきり虫とビーバーの関係など、生物と生物の複雑な関係性を描いています。作品において生物同士の関わり合いや結びつきを大事にしており、そこには「生きものをちゃんと見よう」というメッセージがあります。生物について語りながら、人々はその生物をしっかりと見ていない、人間の尺度でしか見ていないこともしばしばです。はたしてそれは、生物を見ているといえるのでしょうか?
しかし私も作品作りにおいて生物を観察するほどに、どうしても「私」が入ってしまう矛盾を感じます。私としては彼らをコントロールしないように意識をしていますが、関わる以上はどうしても生物の振る舞いが変わります。実際に生物を見ることは、その生物と関係を結ぶことであり、そこに何かしらの影響が発生します。そういう意味では、生物をありのままに見ることはできません。しかしそこで立ち止まっていては生物が見えてこず、コミュニケーションを取らなくては見えてこないものがあります。そうしないと生物がどんどん遠ざかってしまうように感じます。生物に影響を与えないために関係を結ぶことを諦めるのではなく、しっかりと見ること。私も生態系における一人のアクターですから、それを引き受けなければいけません。だから観察しているというよりも一緒に作っているという感覚をもっています。
人間がいなければ生物が激減、絶滅せずに済むのではないかとも考えますが、人間がいなくなれば問題が解決する状況でもないように思います。その時に私たちができることは、生物を知ることをやめない、関わることをやめない、生物と関わるなかからもっと学ぶことではないでしょうか。それはまさにナウシカが腐海と共に生きることを決意したことと変わらぬことなのです。
AKI INOMATA・談
山本美希
MIKI YAMAMOTO
マンガ作家/研究者
『北極百貨店のコンシェルジュさん』西村ツチカ
自らの欲望のあり方を
考える意義

山本美希
MIKI YAMAMOTO
マンガ作家/研究者




『北極百貨店のコンシェルジュさん』西村ツチカ
自らの欲望のあり方を
考える意義

©西村ツチカ/小学館
北極百貨店のコンシェルジュさん
[小学館]
絵を描く人には、それぞれ得意不得意な題材がある。個人的な感想を言ってもよければ、「動物」ははっきり明暗が分かれる。私自身もマンガ家なので、もちろん動物を描こうと思えば描ける。けれども、動物の描写に特に秀でた絵描きの作品にはいつも引け目を感じるし、『北極百貨店のコンシェルジュさん』はその代表のひとつだ。あらゆる動物たちの姿を自在に描き分ける技が存分に発揮されたひとコマひとコマに、ついため息が出てしまう。
「生物多様性についてのマンガ」と聞いて、すぐに思い浮かんだのがこれだった。通行人など脇役も含めれば、数百種もの動物たちが画面に描き込まれており、そのこと自体「生物多様性」を体現していると言ってもよいだろう。物語を楽しむのはもちろん、これはなんの動物かなどと画面の隅々まで眺めているうちに半日過ぎてしまう。
このマンガは動物のお客様が来店する北極百貨店を舞台に、コンシェルジュとして働く秋乃がその動物たちのさまざまな要望に応えるべく奮闘する物語だ。愛らしい動物たちが次々に登場する一方で、毎話の終盤で一部の動物がすでに絶滅していることが語られる。また第2話で、先輩コンシェルジュであるトキワから秋乃に投げかけられる問い「なぜ絶滅種をV・I・Aとしてもてなすかを考えたことは?」は、作品全体を貫く謎となっている。絶滅した動物たちはVIPならぬ「VIA(ベリー・インポータント・アニマル)」であり、特に手厚く対応する必要があるという。
この問いの答えは、最終話の前に挿入される11ページの短いパートにある。要するに、これらの絶滅種VIAは、人間の物質的に豊かな暮らしと引き換えに死んでしまったのだ(一部には絶滅の経緯に諸説ある動物も含まれる)。その絶滅動物たちのために、人間のコンシェルジュが奉仕する北極百貨店の設定には、明らかに皮肉が読み取れる。
ただし、秋乃たちコンシェルジュがおもてなしに奮闘する様子は、皮肉な設定も霞むほど、ポジティブな情熱に満ちている。たとえば、第6話「小さなお客様」では、バーバリライオンの香水探しを手伝う。手がかりは消えかけの匂いだけだが、周囲にいた別の動物の客たちも知恵を出してくれ、銘柄を特定したのは嗅覚鋭いクマの奥様で、最終的に人間のベテランコンシェルジュの経験を活かした方法で香水を見つけることができる。第10話で息子へのプレゼントに悩むジャイアントモアの相談に応じる物語もいい。この話では、同じ種でさえ、家族でさえ、理解し合うことの難しさが取り上げられている。コンシェルジュたちは、毎回ひたすら相手の困り事に耳を傾け、ともに解決策を考える。この仕事の肝は、「理解しがたさ」を乗り越え、喜んでもらう方法を探ることなのだ。
最後に、作中に散りばめられている百貨店に関連するイメージについて触れておきたい。2巻の後半には、スイスの画家フェリックス・ヴァロットンが混雑する百貨店を描いた版画『Le Bon Marché』(1893)や、西武百貨店のポスター「ほしいものが、ほしいわ。」(1988)などが描き込まれている。作者である西村ツチカも、私も創作の場としているマンガは大量消費される印刷物であり、イラストレーションやポスターの歴史は百貨店広告と関わりが深い。自らの創作活動が欲望の駆動と結びついていることを自覚しつつ、その中で欲望のあり方を考えることにも意義があるはずだ。本作から渡された問いを、私も自分の関わることとして、抱えて考えていきたい。
山本美希
金城小百合
SAYURI KINJO
マンガ編集者
『22XX』清水玲子
想像力の限界に挑まなければ、
生物は死にゆく

金城小百合
SAYURI KINJO
マンガ編集者




『22XX』清水玲子
想像力の限界に挑まなければ、
生物は死にゆく

©清水玲子/白泉社
22XX
[白泉社]
「多様性」と聞くとコンプラめいたものが頭をもたげるのは、私がマスコミの人間だからだけではないだろう。先日テレビを観ていたら、人気芸人が自分の夫婦生活(夫が外で働き妻が家事育児をする)を「これが俺の多様性だ!」と半ばやけくそに叫ぶ場面があった。今を生きる私たちにとって、多様性の話題は「受け入れる or 受け入れざるを得ないが内心腑に落ちない」のどちらかのスタンスに分けられ、その議論は平行線を辿ることが目に見えてしんどいものである。
「生物多様性」について考えるとき、日頃の閉塞感がぱっと晴れるような気持ちになる。絶望からみる希望だ。もう、私たちの世界は失われる過程の途中にある。WWFが発行した『生きている地球レポート2022』では、自然と生物多様性の健全性を測る数値が1970年からの過去約50年間で69%減少していることが報告されている。「生物多様性」の視点に立つと、「腑に落ちない」なんて悠長なことを言ってる場合ではないと感じる。本来、誰しもがひとつの顔、ひとつのいのちであって、それは生きる物が生まれながらにして持つ絶対的な権利だ。それが無いということは、生物は死にゆくということだ。生物多様性は、そんな当たり前のことを思い出させてくれる。他方、「生物多様性とは、地球の長い歴史の中で育まれてきた生きものの相互のつながりをも指し示す言葉」「生態系ごと失われているんです」と解説を受けても、罪悪感こそ感じてもピンとこないのも実際のところだ。
私たちはどうしたらもっと自分以外の存在の危機を切迫感を持って考えることができるんだろう。清水玲子先生の中編『22XX』は、地球ではない惑星を舞台にしたSFだ。地球で開発されたロボットである主人公ジャックは、「食べる」機能が備わっている。お腹がすいて食事をとるけど、それは自分の血肉にはならずゴミとなる。一方、惑星で出会ったルビィはカニバリズム信仰をもつ部族の女性だ。ジャックの正体を知らないルヴィが自分を食べてくれと愛する彼に懇う場面は、その切実さに涙が出る。食べて、自分の命を引き継いでくれ、そうして永遠にあなたのなかに私を残してくれ。この漫画を読むと、「引き継ぐ」ことは生き物の原始的な欲望のようにも思う。その方法はきっと様々で、赤ちゃんを産むこともその一つだし、愛する人の肉を食べることも同じくだ。作家にとっての創作もそれに近いのではないか。
私たち人間が人間以外のその欲望を他人事のようにしか思えないのは、想像力の限界なのか。それとも欠陥か。自分たちの問題として想像できない間にも、私たちのこの世界は喪失している。だが、私たちは、自分以外の他なる物については想像しても、想像しきれない部分がどうしても残る。圧倒的な断絶がある。だからこそ逆に、想像し、考え続けるのであり、そこにこそつながりが生まれるのではないだろうか。
ここまで考えて、ふと、故郷の沖縄の米軍基地問題を思い出した。幼少の頃から、どうして基地問題は沖縄だけの問題と報道されるんだろうと思っていた。日本全体の問題のはずなのに?と。そして今思うのは、この問題が議論される時には、生きものたちが排除されているということ。私が望むのは多くの生きものたちがいる「ふるさと」。生物多様性とは、失われた想像を取りもどす私たちの希望だ。
金城小百合
田口康大
KODAI TAGUCHI
教育学者
『地上はポケットの中の庭』田中相
地球での暮らしを
意識させるみどりの手

田口康大
KODAI TAGUCHI
教育学者




『地上はポケットの中の庭』田中相
地球での暮らしを
意識させるみどりの手

©田中相/講談社
地上はポケットの中の庭
[講談社]
みどりの手を持つ人とは、花や木を育てるのが上手な人のことを言うけれど、本質的にはきっと地球に暮らす人なのだろうと思う。誰しもが地球に暮らしているはずだけど、あらためて地球に暮らしていますか? と問われると、ちょっと答えづらい。なぜだろう。
『地上はポケットの中の庭』は4つの短編からなり、それぞれに「庭」と名がついている。そのうちの一篇「5月の庭」は、高校生の山崎がバイト先のコンビニで、迷い込んできたコガネムシを助けることからはじまる。ある日、そのコガネムシが大人と同じくらいの大きさになって現れ、恩返しのためにきたと告げる。セレクトしたのは、山崎とコガネムシが話をしているなかのワンシーンだ。
この作品を読むと、ああ、そうだ、自分は地球に暮らしているのだ、と素朴な事実を思い出して、静かな感動を覚える。爽やかな風が吹き、生きものがそれぞれのリズムで生き、清々しく香る庭があり、自分がそのつながりの中にいる。そのことに喜びを覚えて感動してしまう。この喜びは、自分(人間)が一方的かつ勝手に自然を持つことからは生じないのだろうなと、今回選んだワンシーンに出会ったときに直感した。地球に暮らす植物や動物、他のあらゆる生物とともに生きているという事実が、喜びを生みだすのだろう。
もし、そのつながりからある植物や動物がいなくなり、最後に自分(人間)だけが残ったとしたら……なんと寂しいことか。そこにあったつながりから何かが失われていくこと、そのつながりが断ち切れてしまうこと、それは自分の中の「自然」が失われていくようでとても悲しい。
幼き日のある場面を瞬間的に思い起こさせる作品がある。『地上はポケットの中の庭』もそうなのだが、読んでいて気づいたことがある。それは、思い出す場面のほとんどで風が吹いているということだ。風が吹き、草木が揺れ、青い空と緑の香りの中で走り回っている記憶。自然環境として生きものたちがいてくれることで、生き生きとした感情が生まれ、その記憶もまた豊かなものになっているのだと気づかされた。
ふと、これらの記憶から自然のものが一切失われたらと想像したら、無性に泣けてくる。それは色がなくなることだ。記憶がかっさかさになる。自分にとって、生物多様性の損失とは色の損失だ。生物多様性とは感情の源泉だ。
最後にどうしても追記しておきたいことがある。「5月の庭」に続く「ファトマの第四庭園」で、ある登場人物が語るシーンが忘れられないのだ。「庭に来ると平和を思う」。今の時代だからこそ胸にくるものがある。生物多様性の本当の豊かさとはこの言葉の中にこそあるのではないだろうか。みどりの手を持つ田中さんの作品から、そんなことを気付かされた。
田口康大
※選書やエッセイに描かれている内容は、作品および選書者によるもので、WWFの主張・見解を表すものではありません
イベントレポート
2024年6月30日(日)、代官山蔦屋書店にてイベントを開催しました。選書されたシーンやエッセイのパネル展示、記念ブックレットのお披露目やコミックの販売の他、選書者が登壇するトークセッションをお楽しみいただきました。登壇したのは、AKI INOMATAさん(アーティスト)、越智康貴さん(フローリスト)、東梅貞義(WWFジャパン事務局長)、ファシリテーターを務めたのは、コミック・ダイバースの企画者であり選書者でもある田口康大さん、企画編集者の山田泰巨さんです。

トークセッションは、各登壇者が選書したマンガの紹介から始まりました。WWFジャパン事務局長の東梅が選んだ『釣りキチ三平』の舞台のひとつである諫早湾では、干潟が失われたことで、そこを餌場としていた渡り鳥の飛来地が失われ、さらに人間が暮らしを営む漁場も失われたという過去があります。この出来事には一連のつながりがありますが、私たちがそれを実感するのは容易いことではないという提起がありました。
その後、渡り鳥と植物の関係に話が移りました。一見、鳥が栄養補給のために植物の実を食べて利用していると捉えがちですが、植物の種は鳥に食べてもらうことで、自身では移動できない飛来先の地で、やがて芽を出します。生物に視点を移すことで見えてくるつながりもあるということが語られました。

続いて「食べる」という行為に着目しました。人間は他の生きものを食べることで生きています。選書者のひとりである里中満智子さんの「私には小さい頃から絶対に食べ残せなかった食材がある。それがしらす干し。無数の小さな命を私一人がいただく大きなプレッシャーを感じる」という談話を受けて、日々口にする食物に「命」が宿っていると捉えるとき、どのような感覚が生まれるのかについて意見が交わされました。
また、食は生きるため以上に暮らしに豊かさを与えてくれることもふまえ、「ないと困る」ではなく、「一緒だとおもしろい」「つながっていると楽しい、美味しい」というふうに生物多様性を捉えられないかという会話も生まれました。終盤には神社の話題が取り上げられました。神社があると、私たちはその場所に対して厳かな気持ちを抱き、大事にしようと手を合わせます。日本各地の神社は、山の上や川の氾濫源など、守るべき自然の要所に置かれていることも少なくありません。神社を大事にするような感覚で、自然や生きものを大事にしようという感覚になっていくにはどうしたらよいか。参加者とともにこの問いに向き合う時間となりました。

人間もまた生物であり、他の生物とのつながりの中で生きています。このつながりの中に自分がいるという感覚をどうやって取り戻していくのか。その際にマンガはよいきっかけとなるのではないかと、次なる展開への期待とともにトークセッションは終了しました。

ブックレット配布
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生物多様性
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WWFジャパンについて

WWFは100カ国以上で活動している環境保全団体で、1961年にスイスで設立されました。人と自然が調和して生きられる未来をめざして、サステナブルな社会の実現を推し進めています。特に、失われつつある生物多様性の豊かさの回復や、地球温暖化防止のための脱炭素社会の実現に向けた活動を行なっています。ぜひWWFをご支援ください。